今日はいいお天気ですね( ´ ▽ ` )
昨日、母がダッチフラワーアレンジメントの教室で作ってきたブーケ。
最近、すっごく考えることがあります。
ありのままに生きるってどういうことかっていうこと。
今心の中で考えていることと、表に出ていることに乖離があるほど、人は本質から離れていきます。
だから、面白いと思えば笑えばいいし、悲しいと思えば泣けばいい。ムカつく!と思ったら怒ればいい、ということですよね。
さまざまな感情をもつことや感じることを、自分自身に許す、
ということと、
感じたらどんな時でも外に出したらいい、
ということはまた違うと思うのです。
感情をあらわにすると言うことは、時には効果があるかも知れないけれど、こと対人関係においては全て出すことって自分のためにはなると思うけど、相手にとってはどうだろう?ということです。
特に、いちいち気に障ったこと、自分が感じた負の感情を相手に伝えて、ほんの一時でも相手に不快感を抱かせることって…
本当に愛のある行動なんだろうか。
イメトレや引き寄せを学んでいると、相手にかけられた嫌な言葉、周囲からの不当な扱いがなぜ起こるのかはその人自身の問題なのだと言います。
それは確かにそうです。
人は過去に感じた感情を何度も再現しようと無意識に行動します。
なので、過去の感情で未消化のものが何度も目の前に現れて自身にもっと感じさせようとします。(消化しきれていないので)
ですけど、
その人が嫌な感じと思った出来事を、すべてその人の問題だからと歯に絹着せず何でもぶつけて良いのでしょうか?
その時ムカついて、わざわざ相手が傷つくようなことを言うことって、本当に愛のあることなんでしょうか。
嫌な言葉を自分を愛したいから思いのまま吐き出して、それで相手が傷ついてもそれは相手の心の問題だからと思い切れるって、本当の意味でも自己“愛”なんでしょうか。
ありのままでありたいという思いは誰もが持っていますし、そばこもありのままに自分を愛して生きていきたいと思います。
ただ、自分から出た言葉を、
全て相手の引き寄せの性質の問題にリンクさせてしまうのは、
あまりに自分の言葉に責任のないことだとそばこは思います。
そばこはいじめられた経験がありますから、その過去は確かに自分が引き寄せていたものだと今は思います。
だからと言って、わざわざ相手が不快になることを言うことが自己実現とか自己愛になるとは思いません。
心に留め置くことはやっぱりあると思うのです。
イメトレや引き寄せを学んだ人なら、
誰かに感情をストレートにぶつけるだけが感情の消化の仕方だというのはあまりにお粗末なのは知っていると思うし、
知っているからこそ、その人を傷つけそうな言葉は、その時感じた感情と一緒に自分で処理していきたいと思います。
そばこの場合は、フォーカシングや、イメトレでいつも消化しています。
そういう手間が嫌だとか、感じた時すぐに消化しないといけないと縛られていると、やっぱりその人の自己愛の実現のために何らかの犠牲になる他人が現れるんじゃないでしょうか。
それって、愛がある行動なんだろうか?
自分にだけ愛があって、相手にはないんだろうか?
他人に嫌な思いをざわざわさせて、自分は吐き出してスッキリして、それって本当に愛なんだろうか?
自分を偽りたくない、ありのままでいたいから、何でも言いたいことを言い合いたい。
素晴らしい関係だと思う。
ただ、
そばこは愛がある方を選びたい。
相手を傷つけそうだなと思ったら、その前で留まりたい。
その時未消化の感情が生じたとしても、それをあとでキチンと自分でフォーカシングやイメトレで消化することが、自分に対しても、相手に対しても愛だとそばこは思うのです。
ハピラキ〜\( ´ ▽ ` )/✨すてきなであい✨