今日は曇りがちなお天気でしたね( ´ ▽ ` )
10年ほど前に母の日のプレゼントで買ったものですが、地植えにしてもすっごく丈夫。
うちの庭の中でも日陰でずっと植物が育ちにくかった場所に植えていますが、ユキノシタ科特有の丈夫さを発揮して11月くらいまで咲いています。
元々は淡〜〜いピンクの花でしたが、少しずつ濃いピンクになり、青に近づいているような気がする…?
さて、今日はふと目に止まった漫画の1シーンについて考えていました。
家族とか、親戚とか、友達とか、会社の同僚とか、何かしらの集団に属しているとある程度のルールとか特有のマナーとかってありますよね。
その社会にいるとそれが当たり前になっているので、そういうもんだと思って生活している。
けれど、一歩外に出たら、
外部の人の目から見たら、
ちょっと変じゃない?
っていうことってあると思います。
何度かブログでも書いていますが、そばこの家は我慢=愛ということが大きなルールでした。
我慢することが家族への愛であり、忠誠であり、人間としての正しい在り方であるという考え方です。
そばこはずっとこの価値観が苦しくて、昨年ちょっとした出来事がきっかけである我慢を止めたいと遂に家族に申し出ました。
そばこにとっては長年ずっと言いたくても言えなかったことでしたが、自分をずっと苦しめてきたことでもあるので、この「NO」はものすごく勇気の要ることでした。
もちろん、家族は納得はしません。
冒頭の1コマのような感じです。
辛辣な言葉があったし、そばこは家族の均衡を崩した裏切り者のような扱いです。
初めは自分の気持ちを分かって欲しいと思って言いましたが、1年経ってゆっくりこの気持ちと向き合ってみると、「別に誰かに分かってもらう必要は無い」んだと思えるようになりました。
我慢することが愛であるという価値観を持っていたら、いつまでも自分の愛は我慢が無ければ成立しないと言うことになる。
家族に限らず、どこに行っても自分の気持ちを押し殺して我慢して、気がついたら自分で自分の首を絞めているパターンを繰り返し、その度に何かしらの病気になって強制終了する。
会社やバイトは辞めたら(大変だけど)抜け出せる。
友達もぶっちゃけ言えば連絡を取るのを止めれば抜け出せる。
でも家族はどうやって抜け出せばいいのか分からない。
私はそれが嫌だということを、我慢することや、我慢の度合いによって愛を推し量るという、その価値観に従うのを辞めることをただ認めてほしい。
当時はいわゆる同調圧力のようなものから脱したくて「認めてほしい」「その役目を辞めたい」と言う思いが強かったのです。
別に嫌だからと言って、あからさまに攻撃したり、反抗したりすると言っているわけではなくて、ただ、そばこはそのルールに従わないというだけのことです。
具体的に言うと、その価値観に従わざるを得ない場面があれば、自分は話の流れには同意しないし、できることならその場から去るという手段を取りますよ、ということです。
ま、そばこが結局宣言しただけで、それはただの我儘だと一蹴されましたが。
ではなぜ、家族の一部が我慢する役割を担って、そうでない人たちがいるのか、
我慢する人たちもそうでない人たちも同じ家族なのに?
我慢する人は何故我慢し続けるのか。
我慢する人たちには我慢することによって得るものがあるということです。
ですが、それは個人の中で留まる問題。
その人がその我慢のある生活でいいと思うなら別にその人の自由だから好きにしたらいいと思うんです。
同調圧力によって自分以外の家族にも同じような役割を求めることってどうなんだという話で。
そばこの家族の持つ愛=我慢という価値観が良いとか悪いとかそういうことではないのです。
それは、この価値観を大事にしている家族にもその大事にしている背景がある。
それを持ち続けたいなら持っていたらいいと思うのです。
少し前のそばこなら、「そんなのおかしいよ、間違っているよ」とジャッジを押し付けたり、「わたしもやめるからあなたもやめてよ」って説得にかかっていたと思います。
そうではなくて、ただ、「自分」は、「愛と我慢は別なもの」だとちゃんと区別したいと決める(位置づける)ことが大事なんだと気づいたということで。
家族を愛しているから、大事だから、気づいてほしい、自分を大事にしてほしい、
そういう思いもなかったわけではないんです。
変わりたいと思わないと変わらないし、気づくタイミングもみんなぞれぞれ違う。
目の前の家族を変えられなかったと罪悪感を抱くのも違う。
他人は変えられないし、他人を変えようとする動きは真っ直ぐには相手に伝わらない。
それを納得する。
家族だろうがなんだろうが、別の人間で別の人格で別の魂があるんだから、それぞれが在りたい生き方で、今ここに生きていることをまず良しとしよう。
あれこれ考えたものの、シンプルなところに行き着いたのでした。
そばこは数年前まで七味唐辛子が食べられませんでした。
整形の主治医に体質改善のため七味を食事の1品に必ずかけて食べることを指導されて、少しずつ食べるようになりました。
初めは辛くて口が痛いし、何が良いのか分かりませんでしたが、主治医の言うことなので聞いていました。
しばらくすると、七味の中に唐辛子以外の味があることに気づきました。
「あれ?美味しいな」
と感じるようになりました。
今ではお気に入りの七味を取り寄せて楽しんでいます。
七味を知らずに生きて行ったとしても、まぁ七味を知った人生と比較はできないので別にいいと思うんです。
七味を知って生きて行ったとしたら、七味に関して言えば味覚の開拓ができて七味に関しては豊かさが加わった人生になるでしょう。
でも、七味のない人生なら、七味に変わる別の何かに出会っている可能性だってあります。
これを知った方が幸せ!っていうのはどこまでも個人の感想ですから。
なので、そばこの七味との出会いはとっても良かったですし、七味って美味しいですよって感想は言いますけど、嫌な人には別にすすめません。
七味のない人生にも別の何かがある人生があると思うので。
それがあなたはあなたのままでいいってことだし、わたしはわたしのままでいいってことなのかなとぼんやり思っています。
親の価値観は否応なく子どもに伝わるものですが、親と子どもとは言え、別の人間ですので「あれ?おかしいな?」と思うことが生じる可能性がありますよね。
「相手に理解してもらう必要はない」ことについて。
そばこは数年前まで趣味で小説を書いていて、
〝相手の全てを分かる必要はないし、知る必要もない〟なんてニュアンスの文を書いていました。
ただ、知りたいとか、分かりたいとか言う厚意に近い(無遠慮な)侵入はしないと決める。
そうすると、相手も(無意識の)警戒を解いて自然な距離ができる、みたいなことを言いたかったのかな?
ただ、愛が我慢とくっつたものであるという価値観を止めると自分が分かればいい。
先ずは疑問を持つことがスタート。理屈で分かって、更にハートや魂で完全に理解するまで自分なりに考えて向き合って納得する。
これは自分が一人ですることなのだから、正直他人は関係ないのです。
プールに入って泳ぎ切るまで、漂うだけで着く方法もある。クロールや犬かき、平泳ぎやバタフライで着く方法もある。泳がずに水底を歩いて着く方法もある。
プールがあることに気づかないまま、泳ぐことも、泳ぎ切ることも知らないまま生きていくこともある。
知った方が得とか、幸せとか、そういうのは本人が決めることで、他人があれこれ言うことではないから、「あなたのために言ってあげてる」ニュアンスのアドバイスは侵入なんだなって思うのであります。
「信心とは他人に言われてするものではない」という言葉を聞いて、自分で必要だと思わなければ身に付かないというのは、信仰でもそうだろうし、勉強でもなんでもそうなんだなと納得するそばこでした。
ハピラキ〜\( ´ ▽ ` )/✨愛とはHAPPY✨