今日は久々に朝のウォーキング会に参加してきました。
さてさて、昨日の掘り下げは成功体験による誤解。
子どもの頃、自分の欲求を叶えるために子どもなりに考えてした行動がたまたま上手く行った体験があったとします。
基本的にこの上手く行った体験は危機を脱するためのサバイバル術としてガッツリ自分の中に刻み込まれます。
例えば、目の前に水溜りがあったとします。
いつも仕方なく水溜りをそのまんま踏んづけて歩いていたら靴も濡れちゃうし、不快感が残る。
なので、飛び越えることにした。
何度か試しているうちに、脚力がアップし、完璧に水溜りを越えることができた。
ヤッター!( ´ ▽ ` )
なので、次から水溜りが現れたら全部飛び越えることにして打開することになります。
そのうち、脚力を超える水溜りに出会ってしまう。
飛び越えることが無理なのでもう飛ぶことを諦めて不快感を我慢してそのまま歩くようになる。
え、長靴があるでしょ?
え、回り道したらいいでしょ?
え、誰かにどうしたらいいか聞いたらいいでしょ?
他にもいろいろな対処方法があるにも関わらず、水溜りだ!デカイ!無理だ!と思った瞬間、「諦める」が自動的に選択肢になっちゃうんですよね。
初めの成功体験って、後のいろんなことに無理矢理使ってしまうことがあって、そばこもついつい自動的に反応して使ってしまっています。
今日はヒーリングを受けながら、思いっきり癒しをすることにしました。
そばこの初めの成功体験は、我慢と自己犠牲です。
兄妹たちと自分を差別化し、注目してもらうために、従順な子どもになりました。
我慢して譲り、他の兄妹がサボっていてもお手伝いをしました。
基本的にそんなに報われませんが、時々褒めて貰ったり、頼りにされたりして、自分は特別に愛されていると確認していたんですね。すっごい誤解です。
(ものすんごい口唇人格の防衛のはじまり)
そして、それを続けることが愛を維持し、繋ぎ止めることだと誤解しています。
自己犠牲や我慢を止めたら、大切な人は去っていく、自分を見捨ててしまう、もう、子どもの頃のそばこにしたら必死のパッチですよ。
取り憑かれたように守ってます。
これって、安心安全を守るためにやってるんですよね。
いつも不安だったから。
後に大人になって初めて親に逆らった時、「お前は一番言うことを聞かなかった」と怒られて、愕然としましたが…。
成功体験②は毎日積み重ねて努力して、何事にも全力投球すること。
普通に見ると当たり前の事だし、何が問題なの?って思いますが…。
何もかもを一生懸命やり過ぎて…
その一生懸命に成功体験①が混ざってるんですよ…。
我慢して我慢して、犠牲になって、擦り切れてボロ雑巾になるまで頑張って燃え尽きること多々。
ふと、一人になるとどっと疲れる。
なんでこんなに疲れるんだ…。
頑張ってるのに、努力しているのに、コツコツ毎日積み重ねているのに、どうして上手くいかないんだろう…?
と言うことが起こってきます。
そう、決してこの成功体験②はズレてるはずじゃないのに…。
努力したら報われるって、大人たちはみんな言ってたし、子どもの頃は頑張ったら、褒められたのに…。
①が混ざっているパターンとそうでないパターンが自覚できていないまま生きているので、混乱します。
おかしい、上手くいくはずなのに、何故…?
ってなってきて、自分に攻撃が始まる。
上手くいかないのは、自分に努力が足りないとか、能力がないからだとか、人間としてアウトだからだとか、いろいろ自分を責めます。
ここでは完全に自分の中で心がガチガチに固まっています。
できないにフォーカスしてできない自分に攻撃し続けています。
まずは、完璧ではない自分がいると認める。
そしてできない自分を許す。
できないことはできない。
今自分の持っている成功体験の方法ではできないんです。
でも、できなくってもいいんです。
完璧じゃ無いから。
ガチガチの自分を緩ませる→許す。
許すって、緩ませるって言う意味らしい。
そして、何がどこでガッチリ固まっているんだって言うことを探す。
不安からの行動がうまくいかない原因だとしたら、成功体験①と②が最悪に絡まり合っている時、心の中では何が起こっているんだろうと探る。
毎日コツコツ・努力する・自己犠牲して・我慢する
この全部が重なった時、上手くいかない。
どうして、自己犠牲するのか、我慢するのか。
大切な人の心を繋ぎ止めるためでしたよね。
いや、もう子どもの頃じゃ無いから。
手を離しても大丈夫。
毎日無理に我慢してサービスしなくても大丈夫。
無理が乗っかってるサービスは受ける方がしんどいから。
大丈夫、無理しなくても安心はちゃんと自分で作り出せるし、自分の中にある。
フォーカシングして、たくさんの痛みを感じながら、心の最奥に辿り着いた時、蹲っている自分が全身を使ってがっつりしがみついているのを見つけました。
「重くてしんどいでしょ。もうそれを離してみよう」
と声をかける。
「嫌だ、ひとりぼっちになってしまう」
と反論する子そばこ。
「今も本当にひとりぼっち?」
と聴いてみる。
急に大人の意識が流れてくる。
家族や仲間、友達、先生、いろんな人たちのことを思い出す。
「ああそうか、一人じゃない」
気づいて感じているうちに、しがみついているものが手や体をすり抜け、上へ登っていく。
まるで風船が手を離れて空へ消えていくような感覚でした。
「あ、放しちゃった」
って感じでした。
あんなに怖がっていたのに、一人じゃない記憶を辿っているうちにウッカリ手を放してしまったんですよね。(なんかその辺がどっか抜けてるそばこっぽい)
しばらくすごく不安で、今までずっと持っていた重しが急に消えたので、その軽さに戸惑っていました。
しばらく呼吸を続けていると、次第に「一人じゃない」方の感覚が強くなっていく。
ああ、もう自分は一人じゃない。
(執着から?)手を離しても大丈夫だ、生きていける。
と確かな感覚が体を満たしていました。
目を開けた時、冷たかった足先や指先が温かくなり、体が軽くなっていました。
孤独で、心許なく、不安だった感覚は無くなっていました。
毎日のワークでは一人で掘り下げをして、イメトレでトラウマの解消を試みています。
時々ものすごい痛みに突き当たることがあり、ひどい時は悶え苦しむこともあります。
でも、過去に蓋をしてしまった痛みにフォーカスして、感じ切ることが大切。
ほんの数分のことでも、感じたって「死にそう!」と思うだけで、この追体験やフォーカシングによる痛みで死ぬことなんてありません。
死にそうだけど死なない、って痛み、来るって分かってたらどうします?
逃げようと思えば逃げられるって分かってたら、どうします?
一人の時、やっぱり逃げちゃうんですよね。
痛みの最高潮に行く前に止めるとか…
自分でここはヤバいと察知してはじめからそこまで感じないように手加減するとか。
今日はヒーリングを受けながら、ものすんごい痛いところまで掘り下げできて、フォーカシングできて本当によかったです。
一人じゃない癒しの大切さを再確認したそばこでした。
ハピラキ〜\( ´ ▽ ` )/✨ひとりじゃない!✨