ビーツのジュースと味噌汁飲んで、
昨日の晩御飯の残り(白菜の煮物)を食べて…
塩を入れたお風呂に少しだけ入り、
いつもの神社に参拝して…
準備完了!
てはわけで、病院へ。
昨日作ったシールドは病室のベッドの金属部分にヘマタイトがくっ付いてジャストフィット!
気になっていた女祭りは今にも始まりそうだけど、始まっても手術はするとのこと。
どーやってするんだろ?
あんなふんどしみたいな下着でどーにもならんぞ⁉️
寧ろ好奇心が湧いてきた(笑)。
昨夜は6月の講座で出すレポートを何とか書いて提出。
カウンセリング案件はあったけれど、なかなか課題の内容に沿った話ができなかったなぁ。
同じ心理学を学ぶ仲間同士でカウンセリング練習をすると、確かにいろんな心の動きや反応について説明しなくても自分で気づいてもらえるから、ある意味楽ではある。
でも、結局本来外に広げていくスキルだから、いろんな人の話を聞いてみたい。
まだまだこの心理学については学び始めたばかりだけど、その辺りの好奇心は大事にしたいのです。
入院までに自分でしておこうと思ったことは大体してから病院に入れてよかったです。
ずっと連絡が取れなかったパートナーとも昨夜1週間ぶりに話しましたし。
何でしょうね、そばこの潜在意識に刷り込まれている思い込みの中に、
「男は肝心な時に頼りにならない(助けてくれない)」
って言うのがあって、強烈に、そして忠実にそれが現実化されたって感じでしょうか。
今回、いろいろ危機(これも反応ではある💦)を感じてから、
とにかく誤解が誤解を上塗りして、さらにイメージをこねくり上げ…
どんどん一人で不信感を募らせ、不安になり…
もう男信じないぞ現実化祭り…どころじゃない、リオのカーニバル級になってました。
し、しかも一人で…!
痛いですね〜
ほんと、痛いです。
でも、過去にそう決めた瞬間のそばこに戻っているので、そうだと信じ込んでいる。
そうなるしかないと思っている。
ただ、そばこはこの「男が肝心な時に頼りにならない」は、
肝心な時に頼れなければ相手を信じないし、愛さない、という条件付きの信頼や愛なのです。
そこに立って考えると、信頼や愛は、相手から与えてもらうものだと定義しているし、
そう定義していると、常に相手に期待し続けることになる。
そうなると、
期待通りのことを相手がしてくれないと、ダメだとジャッジする。
そこで関係性を断とうとしてしまい、孤独になる。
または、
相手が思い通りの行動を取るようにコントロールしようとする。
そのコントロールのエネルギーを相手が感じ取ったらやっぱり居心地が悪い。
自分が無意識に期待し、相手をジャッジし、それによって孤独へと突き進んでいくこと、
自分が無意識にコントロールし、相手を枠にはめようとしていること。
思い通りに相手が動いてくれないことを責めて、
こんなに辛いのはあなたのせい!と犠牲者に入る。
自分の得たいものが得られなかったら、
信じられていない、信じない。
愛されていない、愛さない。
条件をつけ、取引をし続ける。
これでは一方にしか信頼も愛もない。
信頼も、愛も、相互にあるものなのに、一歩だけがそれを享受または搾取しようとする構図になる。
この歪なエネルギーは一方が疲弊する構図になり、結局関係性は先細りし、破綻に向かう。
つまりそれは同じような出来事で子どもの自分が取っていた行動なわけで、
トラウマとなる原初の出来事が起こった時、それ以外の方法をとることができなかったからでもある。
反応の最中、もっとも簡単な、慣れた方法は、子どもの頃の自分の経験と学習と価値判断で反射的に行ってしまっている(自動反応)。
それは、大人の自分の経験や知識を使ってしていることではない。
だから、大人同士でこれをやると上手くいかない。
それに少しでも早く気づいて立ち止まること、
そして自動的な反応でそれらをしようとしてしまう時、自分の内側で何が起こっているのか、とにかく待って感じる必要がある。
ほんっと、難しい…
今回、ほとんど反応しまくり、コントロール&ジャッジしまくり、地団駄踏みまくり。
一人で嵐の真ん中に立って、ギャーギャー言ってました。
パートナーとの認識のズレもネガティブな受け取り方しかできず、もう箸が転げても笑う…じゃなく、ブチ切れる体たらく。
待てなかった…
。・゜・(ノД`)・゜・。
ほんと待てないよね〜
だよね〜〜〜
ここは自分を責めず…
その後起こってくる現象に自己責任を持って当たろうと思います…。
そこで思うのはここ数日書いて入るけど、しょっちゅう外れて迷子になる…
愛の場所。
みんな誰でも、自分を一番愛せるのは自分なのです。
自分以上に自分を愛せる人なんていないのです。
どんなに外から愛情を求めても、その愛情は需要と合致したものはなかなか手に入りません。
何故なら、自分で自分を愛せていないと愛の感覚が分からず、つまんない所ばっかりに目がいくのです。
ただ、愛の場所にいると、あらゆることに愛を感じられるようになる。
ぬいぐるみが欲しいと言ったのに、プラモデルをプレゼントされたとする。
与えられることを期待したままでいると、ぬいぐるみじゃないことにキレる。
ぬいぐるみだとわざわざ言ったのに、プラモを持ってきた相手にキレる。
どこ聞いとんねん!
ぬいぐるみや言うとろーが!
所詮お前の気持ちはそんなもんか!
と、プレゼントしてくれた行為そのものに込められた愛情が分からない。
愛はある、初めからあるんだと分かっていたら、こんな風にはならない。
自己愛で自分を満たすことができていたら、
自分にとっても相手とにっても、世界にとってもYESなことができる。
愛を与えることも、受け取ることも、増幅させることもできる。
ぬいぐるみじゃない、と分かっても、
ああ、プレゼントありがとう( ´ ▽ ` )💕
とただ、気持ちを受け取ればいいじゃないか。
愛を受け取ることは、相手を幸せにする。
それが分かれば、認知のズレはまぁあり得ることだと現象として捉えることができる。
(認知のズレで自分が反応を起こすなら、その部分の過去を見る必要もありますが)
いちいち期待してるから、期待外れだと大噴火しちゃうんですよね〜
期待を手放すと、愛の部分に気づけて、本当はただそれだけでお互いが幸せになる。
できることなら、関係性はより幸せな方がいい。
幸せな方に行くなら、愛を選んでいく。
愛の場所から物事を見る。
反応の中から物事を見ると、いろんなことが歪んでいる。
ほとんど歪んでろくでもない状態になっている。
これは真実ではないって分かれば、ちょっと待って!ができるはず…!
できる…!(アファメーションっぽく)
今回、ほんとに反応の嵐で、パートナーに本当に申し訳ないです。
自己嫌悪に陥りそうになるけど、そこには入らず…
愛を持って、愛の場所から、この嵐の後の自己責任部分に向き合う所存です…!
ハピラキ〜\( ´ ▽ ` )/✨愛の場所から!✨
ではでは、今日も読んでくださってありがとうございました😊✨