今日は通学41日目✨
金土日のワークを明日のセッションに持ち込むつもりで、もう少し整理していかないといけないなぁと思うところ。
昨日の記事は読み返すとなかなかアレな内容でしたね…。
いじめでも虐待でもDVでも、渦中にあってそれが日常化してたら、それがいじめなのか 虐待なのか分からなくなってしまう(自覚がない)ことがあるんですよね。
加害側でも被害側でもそれか起こるってことは、その時、自分が反応の中にいて、現実の世界にいないってことなのかも知れません。
そばこが高校生の頃は、荒んだ学校にいた(笑)ので、休み時間のチャイムが鳴った途端、
「〇〇(生徒の名前)、今すぐ生徒指導室(へ来い!が省略されている)!ガチャ!!(受話器を投げ置く音)」
と言う荒んだ(笑)校内放送が鳴りまくっていました。
威圧的で、乱暴で、正直、大人として一社会人としてどうなの?っていう先生が多かったです。
たとえ、校則違反をしていても、乱暴に相手を扱っていい理由にはならないし、
公共の音声放送を聴いている(嫌でも聴こえる)不特定多数の人が気分を害するかもと言う配慮に欠けている。
何より、聴かされる度に気分が悪い。
すごく問題だと思って生徒会でメンバーにその話をしたら、いつも耳に入るだけですごく嫌な気分になるという意見で満場一致しました。
それで、校内でその問題を取り上げてみたら…
思っている以上に「当たり前」だと言う感想を持っている人が多かったのです。
寧ろ、普通の校内放送になったら気持ち悪いという人も。
感覚は皆それぞれなので、どう感じるかはその人個人のものですが、ハラスメントが日常化すると、
加害側は相手がされて当たり前(寧ろこんなことしなければいけない自分が被害者…などなど)であると言う大義名分を作り出すし、
被害側は自分はされても仕方がない、とか、怒りを感じて反抗したいと思うけど、(自分の立場とか力関係とかの理由で)無理なので、感情を感じることや考えることを止めてしまう。
これって無感覚になるってことですよね。
お互い無自覚だと、誰も異常に気が付かないので、大抵は本質から離れて耐えている方に何らかの不具合(怪我とか病気とか)が生じてやっとその不具合の治療という形で外部に関わることになる。
外部の人から見ると、それっておかしいんじゃない?と言われて、初めて自分の現状に異常を感じるようになるという感じ。
心理学の勉強会で、各家庭の常識(我が家ルール)について話し合うと、本当にこの常識が多岐に渡っていることが分かる。
それが当たり前だと思っていたけど、第三者の目から見たら異常なことって本当にたくさんあるんだな…って驚きます。
前置きが長くなりましたが、何を言いたいかと言いますと…
客観的に見たら、そばこの父は祖父をどう見ても虐待していたんですが、
父には全く自覚が無かった、ということです。
寧ろ、自分が大嫌いなじいさんと一緒に住まざるを得ない状況こそが誰よりも何よりも不幸だと思っていたので、罪悪感が一切無かった様子でした。
祖父は倒れて救急車で運ばれる時、救急隊の人の言うことを聞かず、パニックを起こして暴れました。
母とそばこで体の大きな祖父を押さえるのが大変でしたが、父は祖父など見えていないし、そばこたちが困っていることも見えないようでした。
亡くなった時、あれだけ虐め倒していたんだから、何か思うところが無いのか(恨まれるとかそういう系のこと)と思いましたが、何にもなかった。
父には無感覚になるまでに心の動きはあっただろうけど、弔問客にさも普通の家族のように振る舞っていて驚いたのを覚えています。
何を言いたいかと言うと、
父と祖父の状態がすごく嫌だったのに、
自分も憎しみの中に生きてしまっていて、嫌なのになかなか抜け出すことができませんでした。
でも、父もそばこも何かしらの感情の引き金を引かれたら、同じ反応をするしなかった。
本当にその状態が嫌だと心から感じることを止めていたんだなと思います。
憎しみや恨み、怒りを持ち続けるという執着を手放すために、何度もワークやセッションをして、少しずつ進んできました。
例えば5年前は父と再び会話をする日が来るなんて思いませんでした。
一旦今は落ち着いていますが、またステージが変わったらまた似たようなことが起こっては癒してまた先へ進んで行くだろうと思います…。
何か、本当に進んでは戻りの繰り返しの中で少しずつ癒しが積み重なっていくんだなぁと思う今日この頃です。
ハピラキ〜\( ´ ▽ ` )/✨がんばるぞー✨