今日は引っ越し356日目✨
昨夜、食事の時にパートナーのお店で聞いた話をそのままパートナーに伝えたことでガッツリ反応に入る出来事が起こりました。
せっかく作った美味しい料理も台無しです。
単純にそばこは愚痴に近い注意喚起のようなニュアンスかと思っていて、
「(パートナーの)代わりに対応してくれてありがとう」
的なパートナーからの反応が当たり前あると思っていました。
が、
愚痴やネガティブな情報をそのまま聞くだけで、相手の意図を探ることなく、
相手になんらかの提案をすることなく、
会話を終わったこと、
それをパートナーにストレートに伝えたこと、
明日(日曜日)休みのタイミングでパートナーにそれを伝えてしまったこと
にかなりのダメ出し。
結局、そばこは愚痴っているだけで苦労もしない、知らない人たちと同等の存在だと烙印を押され…
それを言う時のパートナーのエネルギーが侮蔑に満ち満ちているように感じてしまい、
そのエネルギーをまんま受け取ってしまいました。
屈辱で怒り心頭なのに、いつもの反応に入ってしまうそばこ。
怒りを感じまいとして、泣くんです。
涙が止まらない。
屈辱的で腹が立って仕方ないのに、言い返すこともできず、涙が止まらない。
そばこが泣き始めるとそそくさと退散するパートナー。
泣いてんのはあんたの問題でしょとばかり、徹底的に知らん顔をします。
ここのところずっと頭の中を巡っていたことがあります。
何で、これが気になっていたのかと思うと、昨日のあと瞬間のためだったのかも知れません。
〝誰かとの関係性の中で
相手が何かを言ったりやったり
動いたりしたことが
自分にどんな変化をもたらしたのか、
また
自分が動いたり発言したことが
相手の中に
どんな感覚や感情を引き起こしたのか、
そして
そのことで自分を責めることなく
関係性を学ぶ必要がある〟
〝常に人とコンタクトを続けながら、
関係性の中にい続けることに
意識をシフトしていく〟
分離を選ぶことは簡単で、
学びながら関係性をトライ&エラーの中で何度も構築再構築を繰り返していく。
愚痴の当事者さんたちも、
パートナーも、
そばこも、
今回の問題やそれから派生した問題について、分離を選ぶかどうかの岐路に立っている。
分離を選ぶことなく、学びの中で成長するポイントを見出そうとしている。
本来ならそばこはそれをサポートしたりする立場であることをパートナーから期待されていて、パートナーはそれを裏切られ、
そばこは期待に応えられなかった。
期待に応えられなかったという事実をジャッジ無しでパートナーが捉えるかは分からないけど、
そばこはジャッジされたと感じて、タイミングとか思慮が足りなかった自分をダメだと断罪(ジャッジ)してしまった。
あの瞬間、そばこはパートナーの代わりをしたことを労って欲しかった。
でも、パートナーの思うサポートではなく、行動そのものを価値のないものだと言われ
た(とそばこは感じた)挙句、自分自身のことまで取るに足りない存在だと(とそばこは感じた)切り捨てられた。
こんなことが過去にあっただろうか?
思い当たるとするなら、
子どもの頃、父親に付き合う友達について「つまらない奴ら」だと言われたことがあります。
そばこの友達は兄の友達に比べて勉強もできないし、(父親から見て)将来性もないと言われ、付き合っているそばこも変わらないと言われた気分でした。
自分を直接馬鹿にされたわけではないのに、ものすごく嫌な気持ちになったのを覚えて居ます。ここは侮蔑のエネルギーを感じたのかな?
ただ、父親には逆らえない(口では負ける)し、
そばこの友達の素晴らしさを父に話しても無意味に思えて、諦めるに入って行きました。
怒りや屈辱を感じないように何も感じずに笑っておくとか、スルーするとかでその場を凌ぎますが、この感じってかなり長いことジワったと記憶してます。
しばらくしてからも急に思い出して自室で泣くとかしてました。
間接的に価値をジャッジされるってとても屈辱的です。
でも、価値を定義するものを変えることはできない。
家族を愛しているので怒りを感じられない。
信じている相手に自分を無価値だと言われた(ように感じる)ことがショックで、信じていた自分も許せない。
反応ごちゃごちゃ…
そして、最初的に「自分は無価値」という場所に降り立っていつまでも相手を恨むのです(被害者の場所に留まる(いつものところ))。
実は今朝パートナーと顔を合わせたらまたもや肉体的な反応(涙)が止まらなくなってしまい、同じ空間にいることが困難だと判断しました。
「あなたの昨日の態度は、わたしを侮辱した」
「あなたの昨日の言葉は、わたしの心をとても傷つけた」
と「あなたのせいでこうなった」をぶつけてやりたい気持ちになってしまう。(被害者の場所)
その先には分離を意味する言葉(取引的な内容になる)しか出てこなくなっている。
(そして、取引は基本的に成立しないので、一方的に自分から分離するを選ぶのがいつものパターン)
とにかく、
「今は」一緒に居たくない
んだよな、と何とか自分を宥めて、当て所なく電車に乗りました。
適当に駅とショッピングモールが合体した場所で降りて、
連休の中日のモールをぼんやり歩く。
音楽と話し声のいろんな音が混ざったガヤガヤした感じに癒されるとは思わなかった…。
パートナーはショッピングモールが大嫌い。
大きな荷物が運べるし、車で行きたいと思うけど一度連れて行って貰って帰ってからの負のオーラがあまりにもヤバいので縁遠い場所になりました。
元々結婚前もそこまでショッピングモールに行っていたわけではないけど、
失われた日常を思うと、去年までの生活がとても安全で守られたものだったと尊くなりますね…。
常にお仕事のために意識を高く持っていなければならないパートナーも大変だと思います。
どこにいても安心できないのはもしかしたらパートナーの方かも知れない。
お互いの自由と、〝一緒に居たい〟を両立するにはどうしたらいいんだろうと考える。
パートナーの行動に付き合う時、100%そばこの意志と意図が働いているのかと言うとそうでもない。
何割かはパートナーが行きたいならよしとしようと言う忖度がある。
そこには生活費のことやパートナーとの関係性を維持するための防衛的な意味合いが含まれるけれど、
結局は100%行きたいわけじゃないけど、嫌と言うほどではないから同意するんだと思う。
最後の一押をしするものがあるならばそれは愛というやつだと思うのです。
ただ、パートナーは潔いほどそれがない。
同じことができるのか?
と問われるとそばこの解釈では総合的に考えるとそれは相手との分離に繋がると思うので、しないを選びます。
パートナーは自分との分離を〝選ば〟ない。
そばこは相手との分離を〝選べ〟ない。
自分にとっても、
相手にとっても、
世界にとっても、
YESな選択が最高最善だとしたら、今自分には一体何ができるんだろうか?
ショッピングモールの喫茶店で手書きの日記を書き、
その後このブログに起こったことをアウトプットしていく。
少しずつ整理されて楽になっていく。
まずはこの
罪悪感を止めること、
ジャッジを止めること、
思考ぐるぐるを止めること。
サポートは来週セッションを予約することにします。
ハピラキ〜\( ´ ▽ ` )/✨少し落ち着いた✨
ではでは、今日も読んでくださってありがとうございました😊✨