今日は久しぶりにモンハン友達と長電話〜!
ネットで出会って、実際に会って、いろんなことを話す間柄になってます。
何でもない日常から、娘ちゃんのこと、お互いのパートナーのこと…
女2人寄ると3時間とかあっちゅう間ですな!
会いたいね〜
お茶したいね〜
こうやって話していてもリアルで会うのはまた違うよねって話してました。
話している中で、最近パートナーとの間で感じている違和感について、気づきがありました。
ずっと感じていた違和感のうち大きなものは先日向き合えたのですが、
今日は同じことを思い出して友達に話しているうちに、急にずっと感じまいとしていた感覚にヒットしたようです。
ぐっと感情が込み上げてきて、在るものを「ない」と否定し続けて来たんだと分かりました。
新しい生活を始めるのに先ずは不安を感じてはいけない、と感じるのをそばこは止めていました。
自分に許可を出して、不安を感じてみたら、それはどんな過去の体験から未消化のまま残っていたものかが分かりました。
この不安そのものについて腑に落ちた後、今日の気づきです。
まず、何が具体的に不安なのかと言うと、
新しい生活を始める時、そばこはパートナーの二人でそれを始めるはずなのに、孤独を感じていることに不安を感じていたのです。
パートナーがいるのに、2人で暮らすのに、誰にも頼れないと思い込んでいました。
何故かと言うと、物件選びの時にパートナーがそばこに「ぼくはどこでもいいから、そばちゃんがどこに住みたいのか決めてね」
と、言われたから。
これは何だと過去の体験を探っていきますと、この間の母との過去のやり取りに行き着きます。
自由にしていいと言っといて実は制約がある。
答えが全然分からない中で、答えを引き当てなければならないプレッシャーがある。
そんな話でした。
今回はまた少し違う感覚です。
「本当にこの人を信じていいのだろうか」
「自分が傷ついて動けない時に、本当にこの人は助けてくれるんだろうか」
って言う問いが湧いてくるのです。
自分が弱っている時、助けてもらえない、と言う思い込みは、原初の傷を探究(求でなく究をあえて使う)すると、
幼少期に熱に魘され泣き喚いたり、咳が止まらずどうしようもない時に、父に容赦なく喧しい!と怒鳴られたことが思い当たります。
そばこが父親の愛情に対して信頼を持てなくなった基本はこの体験に集約されています。
病気でも容赦ない!
助けてもらえない!
と思うわけです。
今回、パートナーと暮らすのに抱えている不安は信じることに対する不安なのです。
この感覚が蘇ると言うことは、そばこはパートナーにも容赦ない!と感じているところがあるということです。
理由は手術前の一連の出来事によるものかと思われますが、この時のワークを再度やるにつれまして…
自分がこの人を信じると決めた自分を信じられなくなってしまっている状態だと分かり、
信じられないことを受け入れられない自分がいることが分かりました。
相手を信じられない自分がダメ!
みたいな感じです。
自責し、そして、パートナーを信じられないことへの罪悪感、悲しみを感じました。
信じられない、を一旦受け入れてみよう。
と思いました。
信じられないから、怖くて動けない。
信じられないから、頼れない。
そこから、
健やかでない自分は必要とされない。
と言う思い込みまで出てきました。
イメージ&ジャッジの嵐!
パートナーはパートナー、父親は父親。
同じではない。
サポートを求める相手はパートナーの他にもいる。
信じられないってどんな感じか感じていると、じわじわ冷たい感覚と、胸やお腹がヒュッとなる感覚がありました。
急に足元の床が消えて、落とし穴に落ちるような感覚。
落ちた感覚の後、取り残されたような感覚、疎外感、孤独と絶望感、悲しみがわっと湧いてきました。
そして、その後恥の感覚。
「頼るなんて恥ずかしい」
って感覚。
大好きな人を信じられないのは寂しいよね、
独りぼっちになる感じがして堪らないよね。
悲しくて、胸が痛いよね…
頼るなんて恥ずかしい、
は、この上手くいかなかった試み(頼る)が上手くいかなくて、その時の失意を感じないようにするために設定している思い込み。
子どもの自分の感じていた感覚を感じながら、向き合って寄り添う。
ハラハラ涙が出て、ちょっとスッキリしました。
ハピラキ〜\( ´ ▽ ` )/✨また気づき✨
ではでは、今日も読んでくださってありがとうございました😊✨