今日はいいお天気でしたね*\(^o^)/*
明日からお天気が崩れるとのことで、いつものウォーキング。
今日の琵琶湖。
昨日、久しぶりに鑑定のお仕事をいただきました。
鑑定では、名前と一緒に四柱推命(おまけ鑑定という位置付け)をしながら、その人のその人らしさや魅力、才能などを主に伝えます。
鑑定を通して自分をもっと好きになっていただければいいなぁ♡と思っています。
↑は母がアレンジメント教室で作ってきたもの。
明るい色合いで可愛い♡
さて、最近そばこは同時進行で2冊の本を読んでいます。
1冊はコンステレーションの本、もう1冊はバーバラ・アンブレナンの著書。
両方、人間の人格というものがどのようにして作られていくかを別の視点で説明しています。
今まで自分を癒すために色々なことを学びましたが、つくづく思うのは、エネルギーワークとは等価交換であるということです。
そばこのレイキの先生はいつも
「アドバイスは相手が望んだ時だけすること」
と仰っていました。
相手が望まないアドバイスはいわゆる「あなたのため=わたしのため」というやつで、目の前の相手をコントロールする意図があるということ。
一方的なエネルギーを流されて食傷気味になるので不快を感じる訳です。
そんなアプローチではせっかくのアドバイスは意味を成しませんよね。
「私は〇〇なタイプだから(これくらい許してよね)!」
「あの人はああいう人だから(これくらいキツく言っても)大丈夫!」
っていう前置きもまた、乗っけから相手のテリトリーを踏ん付けるわよと宣言しているわけで、エネルギー的に相手を侵害すると言っているようなものです。
これって、等価交換とは言えない関係ですよね。
人にはそれぞれ肉体的、心理的な領域というものがあるとして、ある線を越えると人は恐怖を感じ、それが怒りとなり、自分を守ろうとするか相手を攻撃しようとします。
そばこは自己愛とか自己肯定感とかいうことについて長いこと考えてきました。
自分を大事にするという感覚って、単純に言うと自分にとってワクワクすることを増やしていくっていうことだと考えています。
そのワクワクの範囲について、誰かとワクワクを共有できたら素晴らしいけれど、そうできそうもない時もあります。
自分の心をオープンにして素直に生きたいと思うけど、その素直さが明らかに相手を傷つけるかもしれないってこともあるかも知れません。
例えば2人がけの席に誰かと座っていたとする。
もうちょっと足を広げてゆったり座りたいと思ったとする。
「私、ゆったり座りたいからどいてくんない?」
言います?言えます?
そばこは親しかろうと知らない人だろうと言わないし、言いたくない。
例えば相手の厚意が自分にとってあんまり嬉しくないことになった場合。
厚意は自分への愛としていただきましょう。
それがズレてたとしても、それは相手にストレートに苦言を呈することは無いだろうって思うんです。
そこで攻撃を返す必要はないだろうと思うんです。
だって、相手には自分のニーズを満たさなければならないなんていう理由はないから。
与えすぎても貰いすぎてもお互いの中に罪悪感が生じたら、何らかの領域を侵していることになります。
お互いの愛がきちんと循環していたらそんなことは起こらないわけで。
自己愛について思ったことをすぐに出す、感情を出すことは本当に大事なことです。
いい感情も悪い感情も、その時感じたことをきちんと感じ尽くすことで、自分を許し、肯定できるようになっていきます。
特に、ネガティブな感情は自分の中にしまわれ、なかったもの、感じてはいけないものとして追いやられる傾向にあります。
そばこは怒りや悲しみといった感情を相手にぶつけられるとかなりのダメージを負うので、他人にはそんなことをしたくない…。
自分自身が強い怒りや悲しみに揺れた時、その場は一旦その感情を受け入れるまでに留めて、別室に移るなり、自分の部屋に帰るなりしてきちんと自分に集中できる環境になってからフォーカシングやイメトレでそれを感じ直します。
結局、目の前の他人の言葉は自分の心の持ちようで意味変わると言うのは、この繰り返しを続けるしかないとそばこは思っています。
本当に相手の意見を納得して聞き、「そうだね」って頷く。
そして、私にもこういう考えがある、とちゃんと自分の意見を言う。
言われて嫌なことは嫌だし、本心を指摘されることは恥ずかしい。
誰でもそうです。
ネガティブな感情ほどそうだと思います。
それを自分のためだと相手が思うかどうかなんて分からないし、相手の負の感情をわざわざ相手に知らせたくて言うって、結局「あなたのため=じぶんのため」だと思う。
相手の本心(特にネガティブな感情)らしきものに気づいて、相手に教えて、自分に気づけて良かったね、って言ってる話をセミナーに行ってた頃よく聞きました。
自分の気持ちに気づけたことはギフトに違いないけども、指摘されなくても本人は多分気づいている。
わざわざ自分でも分かっていることを指摘されて、思い知らされて、恥入って、認めさせられる、こんな屈辱ってありますか?
できれば自分のタイミングで、自分の安心安全なところで、時間がかかっても納得して受け入れたい。
ずっと自分の中にあって許せなかった部分なら尚更…。
だからこそ、
望まれてからのアドバイスじゃないかなと思うんです。
「どうしたらいい?」
「なんでこうなるんだろう?」
「〇〇さんはどう思う?」
自分を許してやっとSOSを送ることができる。
これもまた自己愛のための一歩だと思う。
準備ができるタイミングは誰もが違う。
そばこは待っていて欲しいから、誰かにそれを感じたら待つことを大切にしたい。
どんなに親しい間柄でも、心のデリケートな部分に踏み込む前に、挨拶がいると思う。
自分がされて嫌なことはしない
自分がされて嬉しいことはしてあげる
この二つは最低限の思いやりと言えるけど、万能じゃない。
人それぞれ嫌なことの事柄や度合いやレベルや場面が違う。
人それぞれ嬉しいことの事柄や度合いやレベルや場面が違う。
少し書き換えてみる。
自分がされて嫌ではないことは人も大丈夫だと思う
自分がされて嬉しくないことは人にもしてはいけない
これは似てるけど、モヤモヤを生みやすい。
要はノックなのだと思うんです。
ど〜〜〜してもアドバイスめいたことがしたくて仕方がない場合…
相手がそれを受け入れられる体制なのか、確かめる。
それが難しかったら、
ちょっといいかな、とか、これは私の考えなんだけど、を前置きしてから話すとか、
相手の結論を求めずに話を終わるとか、
相手の決定権を大事に話す配慮がいると思う。
人間関係の傷は人間関係の中で癒やされていくとよく言います。
まさにそうだと思います。
それは適切な関係性の中で起こることのような気がする。
自分を許すこと、愛することは本当に難しいけど簡単なことでもあると思います。
遠いようでものすごく近くに答えはある。
けどそれが分からなくて迷うし、拗らせるし、隠したくなるし、逃げたくなる。
悩みの渦中にある方が実は抜け出すより楽だとはよく言ったもので、
ただ、意図して(この人のためになるからとか言って)荒療治に他人がわざとかけるのはやっぱり領域を侵しているんじゃないかと思ったそばこでした。
ハピラキ〜\( ´ ▽ ` )/✨気をつけたい問題です✨