お彼岸が近いと言うことで、彼岸花が見られます。
今日はシロバナ種をたくさん見かけました。
昨年には生えていなかった場所に生えているので(逆に生えていたところに生えていない)、連作障害??
彼岸花ってそんなのあったっけ…?
白いのが赤いのと一緒に群生しているものも見られました♪
白い方がやや花が開いているというか、大きい印象がありますね。
今日の琵琶湖。
金曜日にあったミーティングの音源を聴きながら歩きました。
昨日、セッションを受けてスッキリはしたものの、やっぱり傷つく出来事が起こって感情が揺れたら腹が立つし、涙が出る。
何でまだ腹が立つことがあるんだろう。
何でまだ泣くようなことがあるんだろう。
あるんだからもう「何で」を手放そう。
何でって、ムカつくんだから、悲しいんだから、だからムカムカするし、涙が止まらないんだよって。
自分を全然許せていないんだなって改めて思いました。
全然許せていない。
動揺したりすることを許せない。
怒ったり泣いたりする自分を全然許せていない。
別にいいじゃん、一人だったら泣いたって。
怒ったって、いいじゃん。
クッションとか殴ったらいいし、自分にはフォーカシングだってある。
これが世紀末救世主伝説の世界で、腐敗と自由と暴力の真っ只中(笑)ならば、
そして、そばこがモヒカンの屈強な男なら、その辺の弱い人から奪っていたかも知れない。殴ったり蹴ったりして虐げて自分の感情を爆発させていたかも知れない。
でも、そばこはそんなクレイジータイムな世界の住人じゃないし、この感情を人にぶつける以外の方法で何とかする方法をそれなりに知っています。
だから、もういいよ、小さい時は怒ったり泣いたりしたら大人たちから怒られたけど、もう誰もそばこを怒ったりしない。
一人でいる時くらいは、好きに感情を感じたらいいって許そうと思いました。
小さい頃、自分は孤独と絶望を感じながら何を思っていたのか、そして何て言ってもらいたかったのか。
怒ったり泣いたりして大人たちに子どもなりに精一杯抗議した時、怒られながら、
「ただ分かってほしかった」と思っていたし、
抵抗虚しく、大人たちが喧嘩を止めなかった時には、
「ごめんね、話を聞かなくて悪かったよ」
「ごめんね、どうしようもなかったから(自分のことで精一杯で)そばこの声を無視してしまったんだよ」
って大人たちに言って欲しかった。
でもその言葉を裏返すと、そばこ自身に現実を変える力がなかったことを許してあげないと、いつまでも当時の無力感に心が振り回されてしまう。
あの時、過去のトラウマの場面で、大人たちも無力だったし、自分も無力だった。ただ許すと言うのは、そう言うことなんだなって思いました。
かつて、人を嫌いになることを恐れていました。
どんなに嫌がらせをされても、心が少しも分かり合えないと思っても、裏切りがあったり、無視があっても、人を嫌ってはいけないとそれはもう親に厳しく言われていました。
だから、どうしても合わないと感じている人を一生懸命好きにならないといけないんだとと努力しました。
嫌なことをされても笑顔を崩さず、無視されても毎日自分から挨拶しました。
嫌いになると言うことは、親の認める理想の子どもから外れてしまう、そうすると親から見放され、自分は生きて行けないという子どもの頃感じた強烈な恐怖がそこにはありました。
誰とでも仲良くしないと、人間として認められない、我が儘で利己的な人間だと言われ続けたので、只管心を殺して生きていたら、ある時ポッキリ折れて起き上がれなくなりました。
這い上がる中で、ある心理療法の講座で、
「嫌いな人を無理に好きになる必要はない」
「嫌いなら嫌いのままでいい」
と講師が何となしに話しておられたことを聞いて、目から鱗でした。
ああ、別に好きにならなくてもいいのか…。
呪いが解ける瞬間でした。
そこから随分楽になったような気がします。
ただ、これは家族には受け入れて貰えず総スカンを食らって悩んだりしましたけどね。
でも、自分の心は自分だけのものだよね、と今は思います。
誰かの同意が要るとか、正しいとか間違っているとか、そういう問題じゃない。
ただ、そう思っているって自分が分かっていればいいんだと。
嫌ってはいけないと同時に、好きになってはいけないと言うのもありました。
ほんっとに複雑ですよね。
大好きになっても、どんなに信じていても、血のつながった家族でさえ、両親でさえ、過去の記憶のトラウマの場所では、そばこを置いて自分のしたいようにして去っていった。
もうちょっと大きくなった時の話では、学校が終わって、幼馴染と帰ろうとしたら友達に呼び止められたんですよね。
「あの子はそばこと一緒にいると恥ずかしいから一緒に帰りたくない」って言ってたわよ、と。
幼馴染は大人しくて自分の意見をなかなか言えない子でした。
知らない間に傷つけていたし、本当は迷惑で嫌々一緒にいたんだとショックを受けました。
大人になっても、恋愛でも友人関係でも、心を許して一緒にいたら、実はこれは嫌だったと本人から告げられて、去られてしまうこと多々。
知らないうちに相手の大事な部分に踏み込んで荒らしてしまっている。
自分って何てどうしようもない人間なんだと一気に谷底に突き落とされます。
人間って、他人に傷つけられるより、自分が知らないうちに相手を傷つけてたって言う事実を知る方がずっと痛い気がする。
自分の無神経さを知る瞬間って、ものすごくショックだし恥ずかしいし、悲しいし、ムカつくし、本当に自分が心底嫌になります。
自分の持つ全ての武器で自分を総攻撃しちゃうから、もうズタズタ、ボロボロです。
好きになると無意識に持ってしまう親しい相手への侵入への甘えというようなもの…
これくらいいいかな?許してくれるかな?許してくれたら相手は自分を愛してくれてる…?
みたいな、期待とか要求が混じった試すような行為。
思うような反応が無かったらショックで寝込むくらいの衝撃。
ま、基本的に子どもの頃のトラウマを考えると、どんなに頑張っても、何もしなくても相手に無言の期待とか要求を繰り返して、見えない圧で相手をゆるゆる絞め殺そうとして…結局ある日突然相手が目の前から消えるっていうのがいつものパターンですよね…。
好きになっても嫌いになってもズタボロですよ。
だから、好きにならないようにも一生懸命努力する。心が大きく揺れるような恋愛をもうしないともう決めている。
でも、コロッと恋に落ちてしまったら、もう恐怖しかない。
ああ、どうしよう、自分は期待と要求の権化になってしまう。
相手の気持ちを考えられない人間になってしまう。
人を嫌っても人としてアウト、
人を好きになっても人としてアウト、
もうこの二重拘束って何です⁈
そばこの心って、どっちも同じくらいアウトだったんです。
相手に特別な嫌悪を持つことや、特別な愛情を持つことが同じってどう言うことなん⁈
ですよ…。
どっちの心もそばこの心。
愛することも憎むことも、心の自由な動きとして許していいと思うわけです。
いいとか悪いとかそういうことではなく。
ああ、あの人嫌いだ!
今までなら、そんなこと考えちゃいけないから即蓋!
だったけど、どうして、何が嫌なの?それはどうしてそう感じるの?
と立ち止まって自分に聞いてみること、
ああ、あの人大好きだ♡
今までなら、好きになったって結局裏切って去っていくんだから即蓋!
だったけど、まずは好きな気持ちがあるってことをちゃんと認めて、歓迎したい。
なんで何も始まっていないのに裏切られると思うの?
なんで今目の前にいる人が去って行くって決めつけてるの?
って立ち止まって自分に聞いてみて、
とっても怖くて孤独な小さな頃の自分が心の中にいるなら、寄り添って手を繋いで
「だいじょうぶ、今は大人のわたしがそばに居るからね」
って声をかけてあげたいと思います。
ハピラキ〜\( ´ ▽ ` )/✨ひとりじゃない✨