今日は一日雨のお天気!
木曜日なので母のお友達とウォーキング会に参加してきました。
6月に入って花がかなり小さくなってきましたが、ようやく2色が混ざってきた「たまき」。
秋に期待かな〜
今年は夏剪定をしっかりして秋に咲かせてみようという試みをしようと思っています。
昨夜本を読んでいて、物語の中に「放下著」という禅語が登場しました。
放下、と言うのは投げ捨てるとか、捨て切るという意味。
著は命令の助辞なので、昭和っぽく言うと
「捨てちまいな!」
みたいな感じでしょうか。
何を捨てるのかというと、ここでは「執着」のことを指します。
この「捨てちまいな!」というのは、「執着を捨てようとすること」も含みます。
イメトレとか心理講座とかスピ系のセッションでは「執着を捨てること」がとても重要な課題に挙がってきます。
執着によって引き寄せられるものが自分を苦しめることになりがちだからという事ですが…。
そばこは長い間、「赦し」について執着し、苦しんできました。
赦しがたい相手を赦そうと思うことが殊の外辛く、
上手くできないことで自分を責めまくり、自己嫌悪に陥ることを繰り返していました。
ある時、本当に「赦し」って必要なんだろうか?と思ったのです。
赦すとか、赦さないとか、そういう二元論にこだわりすぎているんじゃないだろうか?
ていうか、わざわざ「赦す」っていう漢字しか浮かんでこないのは、自分が被害者だと思い続けていてそこから抜け出せていないからじゃ無いだろうか?
相手から謝って欲しいわけではない。
自分が辛かった時間がそれで戻ってくるわけでは無いし、
相手にとってはただの時間の流れの中に埋没した出来事の一つに過ぎない。
ただ、自分がそこから動けないだけ。
結局心の奥で叫んでいるのは自分なのだと気付いてからは思い出すたびにその感情に寄り添い、共感してその時の自分を抱きしめるようになりました。
「つらかったね、がんばったね、無理させてごめんよ、ありがとう」
その時、誰にも助けて貰えなくて我慢していた思いを聞いて欲しいのは自分自身なんだと気付いてからは生きるのがだいぶ楽になりました。
一つ乗り越えたら、また新しい何かが浮き上がってくる。
何度も同じことを繰り返して、その声が無くなるまで付き合っていくのが大事なんだろうなとつくづく思います。
そばこはストレスボールという喉の違和感に長い間悩まされていたのですが、
フォーカシングという心理療法(?)に出会って完治しました。
簡単に言うと、フォーカシングとは、身体の違和感にフォーカスして心身の不調を緩和するというものです。
そばこの場合はストレスボールですので、喉です。
漢方の半夏厚木湯なんかが処方で出るやつ。
長い間服薬しても少しも症状が緩和されず、いつも喉に何か飲みかけの異物がある感覚があり、常に喉が詰まっている感じでした。
詰まっているなと感じた時、喉に触れながらその違和感に
「今そこに居ることをちゃんと分かっていると伝える」
↓
「今何を思っているのか、どんな感じなのか尋ねる」
↓
掘り下げをしていると、結局簡単な言葉(例/つらい、いやだ、悲しい、腹立つ、嫌い…などなど)になるので、簡単な言葉になるまで根気よく言葉が湧いてくるのを待つ。
違和感とその言葉がしっかりリンクしていると感じる言葉に行き当たるまで試みる。(その言葉を言ったり思い浮かべたら、違和感が何か軽くなったり、温かくかんじるようになったりと言った変化がある)
ひとしきり言葉が出てこなくなるまで聴き続ける(イメージの中で反芻してもいいし、口に出してもいいと思う)
↓
言葉が出てこなくなったら
「教えてくれてありがとう いつもあなたのことを考えてるよ」
と伝えて終了。
悲しみは胸に、怒りはお腹にと言ったように、日本語の慣用句を見ると、感情が溜まる場所には傾向があるようです。
療養が明けて復職した時、
その日の負の感情は翌日に持ち越さない
と決めていたので、ショックを受けた日にはできるだけその日中にじっくりフォーカシングをして乗り切ったものです✨
な〜〜〜んか身体のどこかに違和感を感じたら、消化不良になっている感情があるのかもと思って、一度フォーカシングしてみてくださ〜〜い😊💕
ハピラキ〜\( ´ ▽ ` )/✨ふぉ〜かしんぐ✨
ではでは、今日も読んでくださってありがとうございました😊✨
今日もそばことみなさんにハピラキいっ〜ぱいふりつもる〜☆