忘れえぬ人、というのは誰しもいるのか居ないのか。
昨日糺の森を歩きながら、なんてことを考えていました。
キャ◯ディ・キャン◯ィと言う漫画の中で、キャンディは誰かとの別れの度に、
「生きていたら、いつかまた会える」
と、どんな時もポジティブに乗り越えていきます。
でも、心から愛したテリィと本当に別れなければならなくなった時、
「生きていても、もう会えない」
と、子どものままの気持ちで辛苦を乗り越えられなくなり、初めて絶望します。
「生きていても、もう会えない」相手がいるかどうかで、この台詞から感じることは大きく違っていました。
子どもの頃にアニメを見た時と、
大人になって漫画を再読した時とで同じ作品がこんなにも違う感覚で心に訴えてくるんだなぁと実感しました。
今、思うと「生きていても、もう会えない」ことの絶望感はずっと前から分かっていて、その絶望感にものすごく恐怖を感じており…
そうならないように(防衛)あらゆる角度から気をつけて緊張し続けて生きていたってことです。
相手に対して愛情が深くなればなるほど、
一つボタンを掛け違えたら、
少しでも何か失敗したら…
緊張して、いつも怖くて不安で、それを気取られないように防衛して…
上手くいくと嬉しいし、幸せだけれど、
それを少し感じた途端にまた失うのでは無いかと不安になる。
家族ではない他人との深い関係性に踏みこむことについて、いつも思い留まってしまうのは、
このアメムチムチムチムチ時々アメがシンプルにしんどいんだと本質では分かっているということ。
それは自分の本当に望んでいることではないということ。
でも、それ以外の方法を選べなくて、どうしたらいいか分からなくなっているということ。
友達でも、恋人でも、深い関係性を構築していくために、どうしても自分が陥る負のパターンがある。
ただ、アファメーションや、ポジティブシンキングでは変わらない、乗り越えられないものがある。
自分の何をどう変えるのか、変わるのか、手探りで這いずり回って探し続けています。
つくづく思うのは、自分からサインは確かに出ていたということです。
どんな時も、いろんなサインは出ていた。
もう止めよう、こんなのおかしい。
もっとわたしと話をして。
しっかりこっちを見て。
反応の中、この声は聞こえなくなったり、聞こえたり。
でも、なかなか耳を傾けることはできませんでした。
どんなに上手く行かなくても、届かなくても、愛することを止められないことがわたしにとっては苦しみでした。
それを感じまいと先読みすることに全身全霊をかけていました。
親しい関係性(特に恋愛について)で普段は出てこないオーラルやサイコパス防衛が出てくるんだと今までを振り返って思います。
昨年はそこと徹底的に向き合っていく機会がありました。
昨年の初夏に今勉強している心理学に出会い、
学びながら一年経ってたくさんのことに気づいて、
少しずつ誤解を解いて、
思い込みを手放していって、毎日ただただ必死でした。
思考から現実に戻り、
体の感覚に意識を向けると、白い玉砂利をサクサク踏んで歩く足裏の不安定だけど面白い感覚がある。
隣には忙しいスケジュールの合間を縫って一日詣に一緒してくれたパートナーがいました。
少しは前に進んでいるかな?
と思いながら、誰かと手を繋いで、
嬉しいのに跳ね除けたいと思わなくなったこと、
誰かと一緒にいても、楽しいのに一人になりたくて堪らない気持ちにならなくなったこと、
何か話していないと不安にならなくなったこと、
意識してにこにこしなくても良くなったこと、
些細だけど、わたしにとっては大切なことが今できていて、
何も不安も恐怖もないこと。
「生きていても、もう会えない」
に怯えることが少なくとも今はないこと。
「生きていても、もう会えない」人を20年近く思い続けて、相手も自分も傷付けたことは変わらないし、
そこで、もともと希薄だった自分の女性性を完全に諦めて切り離してしまって、女性としての人生を蔑ろにしてきたのも事実。
つい、この間まで、母が亡くなったらわたしも死のうと思いながら生きてきたけど、
心残りは、その「生きていても、もう会えない」思い人に心底嫌われたまま死ぬことだけでした。
自分が初めて家族より、自分より大切で護りたいと思った相手に憎まれたまま消えていくことが心残りでした。
わたし自身の至らなさに打ちのめされて、
取り返せない過去を悔やんで、
諦めて、
一人の人生を生きようとしていても、
どうしても誰かと心で繋がりたいという思いを無視できなかった。
わたしは何にこんなに苦しんでいるのかと言うと、
誰とも繋がれないことや、
愛することを止められないことに苦しんでいる。
愛されないこと(どうにもならないこと)に苦しんでいるわけじゃないんだ、とふと気づいた時、
それなら、別に苦しんだっていいじゃないかと楽になりました。
ただ、愛したいと言うことを持ち続けていいんだと許しました。
大好きな気持ちを伝えること、
感情を感じること、
間違った時には謝ること、
嫌なことはイヤと言うこと、
ただこれだけ。
少しずつでもいいからトライ&エラーの気持ちでやってみること。
違ったらまた違う方法を探す。
それだけで驚くほど自由になります。
前はあんなに大好きな人でも怖かったのに、
今は隣に誰かがいても平気だなんて。
足裏に伝わる玉砂利の感覚と、他人の手の温もりを交互に感じながら、人間の心の不思議を思った参拝でした。
ハピラキ〜\( ´ ▽ ` )/✨内面参拝レポでした!✨
ではでは、今日も読んでくださってありがとうございました😊✨